この板でいいか分からないけど、いたって感覚的な内容なのでここに立ててみます。
あくまで自分の考えですが
科学も学問も宗教も所詮は人間の域を出ておらず
全てが“曖昧なもの”であるという事実があると思っています
思考も知識も人間の域を超えてできる限りの真実に辿り着き
できるだけ多くの“曖昧なもの”を“確たるもの”にして行きたいです
なぜなら人間(自分)の人生は短いから
人間の思考は五感の影響をうけている。すなわち物質的に出来ているといえよう。
宇宙船が地球から離れ、地球の引力圏から脱しても、依然として私達の思考方法は物質的なのだ。
神がなぜ存在するか、などの問いには、こうした思考の仕方では導き出せない。
物理的思考とはラッキョウの皮をむくようなものだからである。
一枚一枚むいてゆくうちに全部なくなって、サテ一体、ラッキョウの本体はどこにあるのか、本体がないのにどうしてラッキョウが出来ているのか、となるだろう。
宇宙を創った神があるとすれば、神を創った神があってもいいではないか、神の神はどうしてないのかというのは、ラッキョウの思考と全く同じだ。
三次元の思考はどうしても、卵が先か、鶏が先か、どちらが先に生まれ鶏が出来たか・・・・・・ということになってしまうのだ。
虫一匹も創作出来ない私達である。
宇宙や神の存在うんぬんの前に、私達はもっと自然の大なる英智に対して謙虚になる必要がある。
森羅万象の生命の営みをみると、そこには整然とした秩序があり、それによって万物は生かされている。
神はなぜ存在するかの問いは間違いなのだ。
なぜではなく、神は在るべくして在って、私達はその中で生の営みを続けている。
人間についても人間はなぜ存在するかの問いに誰一人として答えることは出来ないだろう。
人間もまた在るべくしてこの地上に立っているからである。
人間のこの地上界での目的は何か、生活の目的は何か。
それは、魂の永遠の向上と調和のひろがりを求めて行くことである。
人間が神の意識から分かれ、単独の魂を与えられたその時からはじまっている。
このことは、好むと好まざるとにかかわらず、私達はそうした目的を持って、人間として生まれて来たのである。
これは観念や、形而上的なそれから考えられた命題ではない。
観念や形而上の事柄は主観的であり、これを認識しようとすると、人それぞれの体験によるところに左右されよう。
ここでいう人間の目的というものは、人が慈悲と愛の調和を求め、正しい生活を実践していくならば誰でもが認識し得る自然の条理なのである。
人間はなぜ退歩をのぞまず、向上を求めて止まないのだろうか、ということを考えて欲しい。
神の意思は無限の向上と調和を求めているのだ。
その具体的な表れが人間なのだ。
神は意思を持たれ、人間はそれを行使する者なのだ。
そうして、魂の永遠の向上を希求して行く者が人間なのである。
地上界の生活行為は、この魂の向上を図るための手段である。
生活が目的となり、魂の存在をないがしろにした時に、人間は苦痛を味わうようにできている。
迷い、悩み、さまざまな事件を引き起こして行く。
戦争、災害、病気、孤独、死、これらに人びとは引き込まれ、人間の本性をいよいよ失っていくのである。
人類は目を開かねばならない。経済の奴隷となり、魂を忘れてはならないのだ。
人間の目的については、拙書(心の原点など)を通して述べてきたがそれは神の意思である調和、善なる心をこの地上界に具象化して行くにあるのである。
私達の好き嫌いの感情に拘らず、人間はそうした約束の下に生れて来、その約束を果たさなければ、その分量だけ苦悩を味わうように出来ている。
神は自ら求める者にその扉を開く。
与えられた仕事に感謝し、奉仕の心を抱く者に幸せと導きとをあたえてくれよう。
神の道は針の穴より小さいということは、己の心をみつめることの少ない人びとが余りにも多いからなのである。
神は何時でもその門戸をひらいている。
いつどこにいても慈悲と愛の手を差しのべてくれる。
神はなぜ存在するのかという疑問は、心を外に向けたときの問いかけなのだ。
内省とふだんの努力を惜しまぬ者は、謙虚と勇気と情熱と、そして常に忍辱とを忘れないだろう。
かくて、神と人間と全宇宙の在り方が己の心を通して、教えられ、そして悟ることが出来るだろう。
いたずらに迷妄の淵にたたずみ、自分を失ってはならない。
金が貯まり、財をうづ高く築いたとしても三度の食事を五度や十度にするわけにはゆくまい。
遊びや娯楽にしても過ぎてくると、孤独と不安が襲ってきて、体のあちこちに支障がおきてこよう。
いつも元気に空を飛ぶ小鳥のさえずりをきくと、人間の欲の深さにあらためておどろきを覚える。
彼等の一生はその日暮しである。
一日一生の彼らは、財も、金も貯えようともしない。
それでいていつも元気で、飢えを知らない。神は、彼らが飢えないように、彼らの腹を満たす食べ物は何時も用意してくれている。
もし彼らの仲間が、食べ物を独り占めし、地上のどこかにかくしたとすれば、他の小鳥達は飢えに泣くことだろう。
しかし彼らは、一羽たりともそのようなワガママや欲望を発展させることはしないのだ。
だから、彼らの仲間は、その日暮しだがいつも元気で、空を駈けめぐっていられる。
どう思われますか?
>>10
SDGsについてはあまり詳しくないですが、
あれは結局、現状で考えられる、人間が人間らしく生きられるために作られたもの、だとなんとなく理解しています。
できるできないは置いておいて、目指すこと自体はとても良いことだと思います。
小鳥には、小鳥たちだけの世界しかない。彼らには水中の魚や人間社会にまで調和を促す能力は与えられていない。
しかし、人間は、小鳥を含めて、全体の調和を進めていく神の代行者、神の意思を受け継ぐ行為者なのだ。
だが、その人間が小鳥以下になり下がっているというのが現実ではないだろうか。
小鳥たち同士で殺したり、殺されたりするだろうか。しないはずだ。他を侵さないので、自分も侵されない。
つまり、彼らは、自分の分を守って生活しているので、安定した共存を可能にしている。
私たち人間も、まずこのルールを守ることだろう。
財を独り占めし、自分さえよければ良いという考えが、混乱の元凶をなしている。
もっとも現在の経済社会は、そうした混乱や個人の欲望、自己主張の上に成り立っているので、これを否定すると、現代経済社会の歯車が狂ってしまうことになるが、しかし、本当はそうはならないのだ。
ありがとうございます。
神がいると考えたほうが、人間にとって都合が良いと思ってます。
だから宗教が生まれた。
神や宗教は、人間にとって、進化の過程で生まれた、人間のための鎮痛剤のようなもので、
死の恐怖、失敗の恐怖、他人と違うことの劣等感、などなど、
それらを和らげるために、人間自身が作り上げたもの。
だから、神がいる、と考えることは、人間には酸素が必要、と考えるのと同じことで、
鶏の話で言うと、神が先に来てしまっている。
というのが、神の存在に対する私の大まかな考えです。
「神が何故存在するのか?」についても、今まで色々考えました。
有力な考えとしては、
宗教によって、神に対する考え方も、人間の行いに対する考え方も、全く一様ではない。
しかしなぜ人間は、それぞれの異なった考え方を信じ、異なった考え方・行為・行いに救われるのか?
それは、人によって、適正があるから。
音楽も趣味も仕事も、各人適性があり、宗教の適性もあるのは当然、と考えることができる。
適性が違うのは、人間の脳の造りや思考回路に個性があるからで、それはやはり、人間の思考が創り出したものでしかなく、進化の過程で創り上げられた、痛みを和らげるためのものに過ぎない。
というような考え方です。
また、私自身、無宗教ですが、宗教自体や神の存在を否定してるわけではありません。
人間にとっての宗教や神は、縋るものであって、自分を保つ為にも必要なことだと思ってます。
例えば、音楽がとても好きな人は、落ち込んたときに音楽を聴くと、心が晴れ、回復することもあります。
また、スポーツが趣味の人も、嫌なことがあったり、切羽詰まったときなどにスポーツをすることで、心が洗われ、思考の整理ができるようになります。
宗教も、それらと同じような働きと効果があると思っていますし、人によっては、それぞれが生き甲斐という方もいると思います。
この世の中は恐らく、全て0か1かで決められているはずです。曖昧なものは、ほぼ無いと言っていいと思います。
逆に、人間の思考というのは、0~人口分の思想や感想があり、ほぼ曖昧なものでできています。
だからこそ人間という生物は面白いんだと思います。
人間の考えたことは、ほぼ全部理解ができます。それは結局、人間は人間の可能な範囲でしか思考・理解ができない、ということになります。
この世の中の殆どは、人間の理解が及ばないもので構成されています。その中のほんの僅かでも理解することが出来れば、また今までとは違った考え方が出来るような気がします。
大人であっても、自分は弱いと感じると、社会への関心を失い、ただ優越だけを求めるようになるようだ
自分が他人とは際立って異なっているという抽象的な目標を過剰に追求することは、神経症によく表されている
この病気は常に現実をありのままに見ることを避けるための手段として使われる
そして必ず他の誰よりも精神的に高貴あるいは知的あるという空想上の保障を与える
自分にしか分からない感覚的な内容を話している人は、社会の中で異常な存在と見なされる
彼らは、他者や社会のしきたりといったものに興味を示さない
しかし、彼らが救われるには、社会性を身につけるしかないのである
神経症の人は、自分の思考は高尚であると思い込んでいるが、それでは不十分だ
社会では、実際に達成したこと、実際に与えたことが大切なのだということを、彼らに理解させなければならない
真実や愛を過剰に強調するのは、劣等感を抱えているからに他ならない
人生の有益な側面で、他者と対等に競うことができないからだ
そのため、曖昧で無益な方法ばかり用いることになる
愛を執着と解釈するなら、これは真理やと思う。
人間に限らず全ての生命は、執着=愛=神が支配者として支配していると言える。
その考え方は間違いではないと思います
上に述べたように、人は何かに縋りたがるもの。
愛というのも、人を安心させてくれる糧でもあると考えられるので、宗教における神の存在に近いのかもしれません。
無宗教です
ありがとうございます。
そう考えると、最近執拗に「論破」したがる人が増えた気がする。
「論破」することで、他人より優位に立てた実感を持てるからだと思いますが、そういった人は今までもずっといたんでしょう。
普通とか一般的とかの言葉の話になってしまいますが、
神経症と言っても、現代社会においての病気のようなもので、いまはそれが病気として扱われても、将来的にはそれが普通になる可能性だってありますよね。
戦時中は、戦争に加担するのが当たり前の考え方でしたが、いまではありえない。
人間の思考や道徳、価値観、倫理観は、時代とともに変化していくのでしょうね。
>神の意思である調和、善なる心
こんなんどうやって導きだせるよ?
神は人間に欲を作ってるんだから
それに従えと考えるしかなくなるだろ?
卵が先か鶏が先かのはなしで、
神が人間を造ったのではなく、人間が神を創ったにすぎないと考えると、
「神が『お前ら他人に迷惑かけんな!良い事だけしろ!』って言ってたわ」
と言っておけば、神を信じてる人間にとっては、従う以外になくなってしまう。
要は、神の意志は全て、人間のエゴに過ぎない、ということになってしまう。
理解されないかもしれないけれど、
宗教にとっての神のお告げは、
国民にとっての法律と同じようなものじゃないでしょうか。
それが”正しい”と思うからこそ従うわけだけど、
宗教に関しては、従う自由度が高く、
法律に関しては、従う自由度がほぼない、
という違いはありますが。
お釈迦さんが悟ろうと
なにかが悟ろうと
生き物は殺し続けるし
殺され続ける
食べ続けるし食べられ続ける
産まれ続けるし死に続ける
その働き自体がこの世界そのもの
私も含めこの世界にあるものは何もかも
この世界が産んだもの
私はそんな風に思ってるね
有機物と無機物
生物と無生物の違いはないのかもしれない
すべてが同じままで
存在し続けることはない
形あるものは崩れ
集まり
また新たな形となり現れる
これが宇宙の法則
なぜなら人間に取って都合良すぎるからな
本当に神が存在するなら昆虫や植物にも導きがあるはず
結局は大昔に法の代わりに作られた道徳なんだよ
法が整備された今は全く意味が無いんだよな
ボーっと生きていたら理解できないが
元スレ:https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1626290001/
livedoor 相互RSS